追い詰められた武三は
ぐっと唾を飲み込み
ついに折れた。
鷹丸は町の小さな茶屋に姿を現しておりました。先客として座っていたのは武三。
その顔にはどこか焦燥の色が浮かんでいたのでございます。
それで、大事な形見の絵をどうして福米屋の旦那に売ろうとするんだ?
最初からそれが狙いか?
な、なぜそれを!?
オレはな、耳も鼻も舌もよく利くんだよ。
それにな、あんたが持ってきた酒だが、ただの酒だ。ここの酒と大して変わらねぇ
それを高級品だなんだと言って、女将やお雪をたぶらかしやがったな。
いったい何がしたいんだ?本当のことを言わねぇってんなら、この話はここでおしまいだ
追い詰められた武三は
ぐっと唾を飲み込み
ついに折れた。
わ、わかった、話す
そして武三は、重い口を開いて
語り始めた。
武三は若かりし頃、親子代々
伝わる名酒蔵で働いていた。
そこには「幻の一級品」と
称される酒があり、
将軍家や天皇に献上されるほどの
名品だった。
その製法は一子相伝
門外不出の秘伝であり
武三もその酒蔵に深い誇りを
持って、日々まじめに働いていたという。
ある日、先代の主人が外国の友人から
預かったという一枚の絵画を蔵に持ち込んだ。
それは、異国の絵師が描いた
美しい絵だった。
先代はこう言った。
この絵画は大事なものだ。他の者には絶対に見せるな
その言葉を守り、絵は酒蔵の奥深く、
誰も触れることのできない場所に
ひっそりと隠された。
先代はまるで取り憑かれたかのように、
その絵画ばかりを眺める日々を送るようになったのです。
日に日にその身は衰え、頬はこけ、声も細くなり、
見るに堪えぬ有様でございました。
そんなある日、ついに床に伏した先代は、息子の和明を枕元に呼び寄せました。
和明……
あの絵を、決して他猫に見せるでないぞ……
お父さん、なぜそこまであの絵を大事にされるのですか?
あの絵には……不思議な力が宿っておる。それを長らく考究(こうきゅう)してきたのだ……
考究でございますか?
だが、その力の真相はまだわからん……。それでも、他の者に見せたら、
噂が広がり、この酒蔵は潰されるかもしれぬ
そんな恐ろしい話が……
和明よ……あの絵にこの蔵に伝わる幻の名酒の製法を隠しておいた
先代は力なく息をつき、息子の
手を弱々しく握り締めました
この酒蔵と共に、あの絵を守り抜くのだ。それが我が一族の務めよ……
お父さん、分かりました。必ず絵も蔵も守り抜きます
その言葉を耳になさいました先代は、
さも安堵なされた面持ちにて、
うっすらと口元を緩められ、
そのまま静かに息を引き取られ
なされました。
それからというもの、和明は父の
遺言を胸に秘め、酒蔵を守り
続けておりました。
しかし、あの絵画がやがて和明を
どのような運命へと導くのか――その時、まだ知る由もなかったのでございます。
武三は代々この蔵を守る家柄に生まれ、
主たる和明と共に蔵を支えることを己の使命と心得ておった。
特に先代が残した幻の名酒、
その製法が記された絵画については、
武三もまた厳重に秘して守り続けて
おったのでございます。
しかし、先代がこの世を去りし後、
和明の心は少しずつ変わりゆき、
毎晩のごとく遊郭へ通い、
湯水の如く金を使い始めた。
次第に蔵の財産も目減りし、
ついには酔いに任せて、
あの絵画の話すら口にするようになる始末
あの絵画は外国の珍品で、とんでもない値打ちがあるのだ
噂は瞬く間に町中に広がり、
蔵の評判をも危うくするもので
ございます。
このような有様に、武三の胸中も穏やかではおらぬ。
さあ、これからどうなるやら、
そんなある晩のこと――。
火事だ! 蔵から火が出ている!
どこからともなく上がった叫び声に、
武三は驚き、飛び起きました。
蔵の方向を見ると、真っ赤な
炎が夜空を染めているではありませんか。
これは一大事! 使用人たちを起こせ!
武三は声を張り上げながら、
火消しに奔走しました。
桶に水を汲み、必死に炎を抑え
込もうとしましたが、
火勢は増すばかり。
まるで燃え盛る炎が何かを
隠そうとするかのように、
蔵を覆い尽くしていきます。
その時、武三の頭をよぎったのは主君である和明の姿でした。
旦那様! 旦那様、一体どこへ行かれたのですか!
まさか……旦那様、蔵の中に!?
蔵の柱が折れ崩れる音、煤けた木材の焦げ付く匂い、
そして、酒が燃え盛る何ともいえぬ匂いが
辺り一面に立ち込める中に――
駆けつけました使用人どもが、
何としてでもと掻き出し申しましたるは、惜しきかな、
僅かばかりの酒瓶のみにございました。
やがて火が鎮まり、黒煙が立ち込める中、焼け跡から一体の
遺体が発見されました。
それは、蔵の奥――絵画が
保管されていた場所で横たわっていたのでございます。
旦那様……
それは、まぎれもなく和明のものでした。
主を失い、幻の名酒の製法を記したという絵画もまた灰となってしまった――。
その後、武三が見たものは、ただ静かに朽ち果てた蔵の残骸と、
己の無力さを責める暗い夜空だけでございました。